劇団四季 ジーザス・クライスト=スーパースター 2024.6.1 感想 ☆ 加藤迪ジーザス 佐久間仁ユダ 江畑晶慧マリア

観劇・映画鑑賞レポ

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2024年6月1日、京都劇場にて劇団四季「ジーザス・クライスト=スーパースター」ソワレを観てまいりました。
ところでこの作品、皆さんはどんな視点から御覧になっていらっしゃるのでしょうか。
イエス・キリスト(ジーザス・クライスト)が十字架にかけられるまでの最後の7日間を描いたミュージカルなわけですが、我々はクリスチャンでもありませんし、うまく言えませんが、いつもすごく客観的に鑑賞しております。
ストーリーとしても成立しているような、していないような感じですしね。
何が言いたいかというと、予習せずにただこの作品を観ただけで、登場人物に感情移入したり、ストーリー展開に涙したりという種類のミュージカルではないと思うんです。
深く理解するためには聖書の熟読や、歴史・社会背景など考察までもが必要になるでしょう。
キリスト教についても、イエス・キリストについても、ごくごく一般常識程度の理解しか持ち合わせていない我々としては、このミュージカルはどうしてもコンサートとして楽しむ要素が強いんです。
要は、哲学的とか詩云々とかごちゃごちゃ言わなくても、「キャッツ」がダンスショーとして十分楽しめるミュージカルであるように、この作品も難しい理屈抜きで、ロイド=ウェバーの素晴らしい音楽と歌だけで堪能できるのです。
ちなみに前回同公演を鑑賞したのが2018年2月・大阪のオリックス劇場でしたので、今回はおよそ6年ぶりの鑑賞でした。
さかのぼれば山口祐一郎ジーザス、保坂千寿・野村玲子マリア、沢木順ユダの頃から、少なくとも何十回かは鑑賞しているわけですが、今回の注目点としては、やはり新ジーザスの加藤迪さんではないでしょうか。
加藤迪さんが劇団四季で注目の俳優ではないかということを以前「ノートルダムの鐘」京都公演のレビューで記事にしていたのところだったのですが。。。
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ジーザスに加藤迪さんがキャスティングされたときはビックリ。
まさかの展開でした。
ちょっと予想していなかったですね。
今回は楽日前日の公演でしたが、ジーザスは加藤迪さんでした。
御縁があるのか、我々が劇団四季の公演に行くと加藤迪さんがキャスティングされている率が高いんです。
神永東吾さんは逆に縁がないです。
神永さんが観たいと思っていても、なかなか会えないです。
前回のオリックス劇場でもジーザスは清水大星さんで、その前に観た東京公演は神永さんのデビュー公演にもかかわらず、芝ジーザスでしたから。
そういうのってあるよね~。

ということで、感想に進みます。

ジーザス・クライスト 加藤迪さん

「人間らしいジーザス」だとか、「神というより優しい青年」だとか、事前にいろんな方の加藤ジーザスの感想をブログなどで目にしていたのですが、うーん。
よく言えば、そういう言い方になるかもしれないですね。
加藤迪さんは大好きな俳優さんなのですが、ジーザスに関しては正直、かなり物足りなかったです。
声量も、存在感も。
線が細すぎます。
加藤迪さんのファンの方、ごめんなさい。
自分の中には山口祐一郎ジーザスがそもそものベースにあるので、余計そう感じてしまうのだとは思うのですが、ジーザスの第一声となる「なーぜ知ーりたい♪」のところも、声量が足らないのでガクッとしてしまいました。
アソコの部分は騒がしい群衆たちを一気に静寂に導いてしまうようなパワフルさと、観客に「私がジーザスだ!!」と知らしめるほどの強烈なインパクトが欲しいです。
全体的にシャウトもまだまだだなって感じてしまいました。
佐久間ユダが完璧で歌も絶好調だったし、シモンやペテロも結構な声量だったので、迪さんの声が余計に沈んで聞こえて、彼のところだけマイクの音量上げたらいいのにとすら思ってしまいました。
この役を演じるのって、ものすごい重圧で、本当に大変だと思うんです。
「イエス・キリスト」ですよ。
考えて演じられるものでもないなーって思うんです。
もし自分の親族がこの役を演じることになったら、正直笑っちゃいますよ。
よく考えてしまったら、こんな役演じられないです。
そもそも、この話にロックをあてがってしまうこと自体、ありえないっちゃありえない。
だからこそこの作品、最初にお伝えしたとおり、ただのコンサートでいいんです。
偏った主観ですが、基本的には、ただただロイド=ウェバーの素晴らしい音楽を堪能できればそれでいいと思ってます。
それゆえに、その世界観と歌だけは重視しています。
いろいろな解釈や個人の好みはありますが、タイトル「ジーザス・クライスト=スーパースター」の通り、スーパースターとなり得る、周囲とは一線を画す神々しさやカリスマ性を感じさせる「何か」が欲しいです。
だって、大勢の群衆を巻き込み、国を揺るがすほどの影響力があるのではないかと恐れられたからこそ、十字架にかけられたんですよね。
それなのに、迪さんはジーザスを「ただの人間」に落とし込みすぎましたね。
そうもしなければ演じられなかったのかもしれませんが、それだけではいけないと思います。
迪さん、ふだんはきっとすごく謙虚で、基本的には物静かな方なんでしょう。
それが加藤ジーザスからビシビシと伝わってしまうのです。
なぜかこの作品では、彼の体格すら小柄に見えてしまいました。
何というか、こう、もっと弾けちゃってください!
この役をもっと楽しんでもらってよいのです!
迷いは捨ててください!
時にはエラソーなぐらいでちょうどいいんですよ。
「あなたがそう言った」なんてセリフ、感じが悪いと思わせるぐらいでちょうどいいと思いませんか。
それに、ジーザスはただの悩める青年ではありません。
考えてもみてください。
パンを「私の体」、葡萄酒を「私の血」として弟子に与えるなんて、普通の人間の感覚ではないです。
迪さんの演じるジーザスでは、そういったセリフの数々が浮いてしまいます。
メロディー、ストーリーライン両方から考えても、ジーザス役の圧倒的な歌唱力や存在感は絶対に必要だと思います。
そうでないと、ゲッセマネの長いナンバーは、正直聞いてられません。

ユダ 佐久間仁さん

前回オリックス劇場で6年前に鑑賞したときも、ユダは佐久間さんだったのですが、今回のほうが断然よかったです。
歌も演技も、ビジュアルも、ジーザスの世界観にバシッとハマってました。
これ、我々の中での最高の褒め言葉です。
佐久間さん、ありがとう。
とっても楽しめました。

マグダラのマリア 江畑晶慧さん

江畑晶慧さんも御縁がないのか、あまり観る機会に恵まれません。
最後に観たのって、何年前だろう、結構昔です、大阪のソング&ダンスかな。
マグダラのマリア……
好みの問題かもしれませんが、江畑さんのこの役にはなぜかピンと来なかったです。
ちょっと見た目が健康的過ぎる感じで。。。
まず、メイク。
そもそもこの役、昔(保坂千寿さん、野村玲子さん、鈴木京子さん…等の時代)は、褐色メイクをしていたと思うんですよね。
群衆と同じように顔にも汚れとかも付けてた気がするんですけど、いつから真っ白な地の肌で出演するようになったのでしょうか。
薄汚れた群衆の中に色白でで丸々と健康的、ニコニコとしたキレイな江畑さんがいて、リップも赤くて、ちょっと違和感ありました。
マリアも貧しい群衆の一人のはずなんですけど…。
「男も女も愛したことさえないわ」という、マリアのこれまでの不遇な人生を思わせる歌詞が、見るからに幸せそうな江畑さんには、本当に似合わないです。
そもそも持っている雰囲気が限りなく「陽」の方なので、キャラクターがフィットしないのかもしれません。
それにしても小綺麗過ぎました。
荒野に馴染んでなかったです。
あと、これも好みの問題かもしれませんが、歌はもう少しロック魂が欲しかったです。

まとめ

全ての役がジーザスがあってのものといった要素が強い作品なので、やっぱりジーザスの圧倒的な存在感がとても大切だと感じた公演でした。
ユダ役がいくら頑張ってくれても、ジーザスの存在感がないと、作品そのものが薄くなってしまう感じがしました。
それにしてもやっぱり、ロイド=ウェバーの音楽は素晴らしいですね。
衣装もセットもこんなに地味でお金もかかっていないのに、音楽だけで満足させてしまうなんて、ただただスゴイの一言。
時代が変わっても上演し続けることができる、朽ちない作品だと思うので、劇団四季には是非ともこの作品は継続的に上演していただきたいです。
ユダ役を目指す俳優さんは結構多いみたいですけど、「我こそはジーザス」みたいな俳優さんが出てくることを楽しみにしております。

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